本日は実質、昨日の続きから。
大阪市西区は「新町」の東側、
地下鉄・本町駅と四ツ橋駅の間を走る
阪神高速の高架沿いを
歩いていた時に発見した石碑のお話です。
続きと言っても
内容は別の物となりますので
このまま読み進めても問題ありません。
昨日の記事については
下記のリンクからご覧ください。
・戦争犠牲者の慰霊碑(写真手前側)
今回はこちらの
向かって左側の石碑に注目。
左右に柱。
中央には碑文と絵のようなモノがある。
『それにしても草すごいな』
『草生き生きしとんな』
一緒に来た嫁のまーさんと共に
生い茂る雑草軍団をにらみつける。
石碑などを巡っていると
こんな感じで雑草の妨害にあって
近づけなかったりするケースがある。
我々と草の確執は根が深いのだ。
この草め。
右側の柱。
「しんまちはし」
と名前が書かれている。
『ああ。これ橋の跡なのか』
『結構古そうやし
橋に使われてたヤツやろか?』
橋の資材として
実際に使われていたものかは不明だけど
もしそうだとしたら
親柱という代表となる柱だと思われる。
左側の柱。
こちらは漢字で「新町橋」。
一度剥がれ落ちてしまったのか
名札を補強して取り付けた形跡がある。
草に阻まれながらも
中央の碑文をアップで撮影。
詳細は写真をご覧ください。
簡単にまとめた説明を
以下に書き出してみます。
「新町橋」
寛文12年(1672年)に
新町遊郭東側の通路として
西横堀川に「新町橋」が架けられた。
明治5年9月に鉄橋に架け替えられた。
その後、何度か改修されたものの
昭和46年頃、
西横堀川の埋め立てにより
「新町橋」も姿を消した。
その歴史は古く江戸時代から
橋が架かっていたようですね。
同時代、この新町には
幕府公認の遊郭が存在し
また桜の名所としても知られていた。
というのは
以前別の場所で発見した石碑を
調べた時に知りましたが
今回ここでも同じ話が出てきましたね。
↓その石碑についてのリンク。
・遊郭の名残を大阪市が誤魔化した感じの碑
碑文横の浮世絵。
在りし日の活気に溢れた頃の
「新町鉄橋」の様子が描かれたもの。
鉄橋に架け替えられたのは
明治時代なので
その頃の姿でしょうか。
西横堀川の広さがうかがえますね。
かつてあった西横堀川の痕跡と
そこに架かる橋の存在を示した
「新町橋跡」の石碑。
すぐ隣にある
「西六平和塔」の慰霊碑と共に
眺めていっていただけたら幸いです。
※この記事の写真は2018年2月に撮影したものです。
---押してもらえると嬉しいボタン---
にほんブログ村
大阪府ランキング
【「新町橋跡」の石碑】
最寄り駅は
地下鉄・四ツ橋駅
地下鉄・本町駅
地下鉄・心斎橋駅
コメント