この日は
大阪のターミナル駅の一つして知られる
「京橋駅」の周辺を散策。
と言っても
駅の表側となる北口の改札や
飲食店街が並ぶ場所ではなく、
裏手の大川沿いの細い道を散策。

大阪城と繋がる西の方向へ
歩みを進めていると
歩道橋の下に見覚えのある石碑を発見。
というか上のアレ、
歩道橋って呼び方でいいのかな?
京橋駅を利用した事がある人なら
分かると思うのですが
ダイエー(現在はイオン)とかにも
繋がっているあの長ひょろい
連絡通路みたいなヤツの事です。
ひとまず歩道橋でいいや。

こちらの石碑は
「旧町名継承碑」というもの。
昭和時代の区画整理で消滅した
昔の町名を現代に伝えるために
大阪市が設置した石碑。
なんか隣にピラミッドみたいな
謎の物体があるので
そいつの案内板のようにも見えますが
彼らはそういう関係ではありません。

はめ込まれているこの青いプレートに
旧町名の経緯や由来が書かれている。

なんかシールっぽいのを貼られた跡や
傷がついている・・・。
どうやらこの辺りは
「新喜多町」
という旧町名だったようだ。
読み方は「しぎたまち」。
詳細については写真をご覧いただいて
「新喜多町」に関わる部分だけ↓に抜粋。
「新喜多町」
明治33年
新喜多新田字築留、蒲生村字外嶋という
地域が「新喜多町」となった。
その後都島区に編入され
昭和44年9月
住居表示の実施にともない「新喜多町」は
片町二丁目の一部となった。
町名の由来は
この地を開発した
鴻池屋新十郎・鴻池屋喜七・今木屋多兵衛
の名前を一字取って新喜多とした事から。
かつてこの辺り一帯は
新喜多新田という田畑だったそうで
名称をそのまま町名にしたようですね。

「新喜多」といえば
以前にもこの新喜多に関する
集会所の跡地を訪れた事があり、
そこでも
田畑の開発を行った三名の名前を取って
「新喜多」にしたという
話が触れられていましたね。
その時の記事については
↓に貼ったリンクからどうぞ。
内容・京橋から東大阪まで田畑だったよ。
ところで
「新喜多会所跡」の案内板だと
開発者の内の二人の苗字が
鴻池 新十郎
鴻池 喜七
だったんだけど
今回の継承碑の碑文には
鴻池屋 新十郎
鴻池屋 喜七
と書かれている。
どちらが正しいんだろう。

継承碑から向かい側を見た写真。
すぐ先は大川が流れている。
この真正面には大阪城公園がある。
川を二つ越えなきゃいけないけどね。

京橋の裏手にひっそりと佇む
「新喜多町」の旧町名継承碑。
近くを通り掛かった際は
ぜひ眺めていってみてください。
※この記事の写真は2018年3月に撮影したものです。
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【旧町名継承碑「新喜多町」】
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