この日は「天満橋」の
周辺を散策に訪れました。
天満橋の南詰め、
「天満橋駅」がある場所ですね。
ここから「土佐堀通り」を
西の方へ進んでいた時のこと。
信号待ちをしていると
前方のお店の前に石碑を発見。
写真の「永田屋昆布本店」さんの
店頭、右下の部分をご確認ください。
・・・分かりにくいね。
次の写真で近付くから安心して。
『あそこに石碑があるよ』
『え? どこ・・・?』
ひとまず
一緒に来た嫁のまーさんに早速報告。
『あそこ。昆布屋さんの前』
『んー? 屋田永ってとこ?』
『逆。それ逆。永田屋。右から左』
『あっ』
『お願いだから今のブログに書かんといてな』
「うん」って答えなかったから書いた。
えへへ。
その後も指差して教えてみたけど
車通りが多くて
石碑が車の陰にすぐ隠れてしまい
なかなか説明できず・・・。
信号が変わったので
渡ってから確認する事にしました。
こちらが碑。
「八軒家船着場の跡」
と刻まれています。
読み方は「はちけんや」です。
『八軒家ってそこの天満橋の
川沿いになんかあったヤツやろか?』
『ああ。あったねえ』
『そういえばあそこ写真撮らへんの?』
『史跡っぽい感じやったやろ?』
『忘れてた』
『改めて写真撮りに行かなきゃ』
『忘れとったんかい』
天満橋の川沿いには史跡っぽいものが
いっぱいあったと思うので
そのうち機会を見て撮影しに行きます。
碑はこんな感じで
「永田屋昆布本店」さんの
目の前に建ってます。
美味しい昆布の佃煮を売ってるよ。
ここに来たらお土産にどうぞ。
碑の右側面。
西側(天満橋の架かる大川)は
江戸時代、交通の拠点として
京都との船の往来で栄えていた。
という旨が記されています。
という旨が記されています。
碑の左側面。
昭和40年5月に建立された模様。
碑の裏側。
下のほうに何か刻まれていましたが
ちょっと解読できませんでした。
碑の隣にも
記念碑のようなものがありました。
船着場にあった石なのかな。
大阪市教育委員会が設置したようです。
こちらの小さな碑にも
「八軒家船着場の跡」と刻まれています。
小さい碑が最初にあって
目立たないから表の大きな碑を用意したのか。
もしくは何かの事情で
別の所から移動してココに設置したのか。
詳細は分かりません。
お店の前には
「八軒家の今昔」というタイトルの
冊子が置かれていました。
永田屋昆布さんが
おそらく自費で置いてくれてるものです。
お一人様一冊ですよ。
『やったぜ』
『ここに詳細書いてるだろうから
調べる手間が省けるぞ!』
『ここに詳細書いてるだろうから
調べる手間が省けるぞ!』
『手間を惜しむな』
ありがたく1冊いただいて内容を確認。
『ふーん、なるほどねェ』
『何か由来とか書いてあったん?』
『俺にこの冊子はまだ早かったようだ』
『おい諦めるな! ちゃんと読みなさい』
『いっぱい書いてるから家で読む』
『えー・・・』
カラー印刷で20ページくらいある
しっかりとした冊子なので
帰ってから熟読する事にしました。
お店の右側の壁。
八軒家船着場の由来を説明する
案内板と絵図がありました。
案内板をアップにした写真。
詳しい事はこちらをご覧ください。
いただいた冊子や他の資料などを
合わせた簡単な詳細を以下に書いときます。
面倒な方は茶色い文章を飛ばしてね。
「八軒家船着場」
この地は旧淀川(大川)に設けられた船着場があった。
古代から交通の要衝とされており
仁徳天皇の時代には「難波津」とされ、
※難波津は「なにわつ」と読みます
平安時代には「渡辺津」と呼称され、熊野詣への上陸地点であった。
※渡辺津は「わたなべのつ」と読みます
江戸時代になると船着場には八軒の船宿が存在し、
「八軒家船着場」の名称はそれが由来であるとされる。
資料を見ると大昔から船の発着場として
栄えていた場所のようです。
時代によって名前が変化していきますが
江戸時代に名付けられた
「八軒家船着場」が碑に残されたんですね。
絵図をアップにした写真。
江戸時代の八軒屋浜の光景とのこと。
今でこそ電車でパッと京都に行けますが
江戸時代は船で京都からこの場所まで
川を渡っていたというのだからすごい。
八軒の船宿も当時は繁盛してたんだろうなあ。
老舗の昆布屋
「永田屋昆布本店」の店頭に設置された
「八軒家船着場の跡」の碑。
昆布が好きな人は
必ず眺めていってください。
※この記事の写真は2017年12月に撮影したものです。
【八軒家船着場の跡】
最寄り駅は
京阪線・天満橋駅
地下鉄・天満橋駅
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