この日は大阪市旭区千林にある
「千林商店街」で買い物をして、道に迷いました

私は方向さえ合っていれば「ここ近道~」
とか言って適当な道に入り込んで、よく迷っています。


当たり前のように書きましたが
はっきり言って遭難です。

もうエライこっちゃです。

私の手元には商店街で買った人参、ジャガイモ、水菜しかありません。

たすけてください。




1122_01

「ここはどこだ?」と思いながら
見知らぬ住宅街をうろうろしていると、

変な看板が見えました。



1122_02

注意書き等の立て看板のように見えたけど、
ちょっと雰囲気が違う。



1122_03

あっ、コレ史跡の案内板だ。


道に迷ってる事を忘れ、心が散策撮影モードに切り替わる。



「強頸絶間(こわくび の たえま)」

普通には読めないタイトルがついていました。

その上なんか物々しい。

説明文を噛み砕いた内容で書き出すと、



仁徳天皇の時代、築いてもすぐに壊れてしまう堤防が二箇所あった。

ある日、天皇が夢で「武蔵の強頸(こわくび)」「河内の茨田連衫子(まむたのむらじころものこ)を生贄に捧げよ、と神のお告げを聞く。

ほどなく堤が完成し、その一つが「強頸絶間」である。



・・・なんだかよく分からない。

旭区役所さん、物語を端折り過ぎ。



1122_04

気になったので調べてみました。

ちょっと長いので面倒な方は
旭区役所の説明の方で納得してください。



「強頸絶間」とは、
過去に起こった人柱(生贄)伝説で、日本書紀に記されているものである。

仁徳天皇の時代、頻繁に氾濫する淀川を治水工事するために茨田に堤を築いた。

しかし、堤には何度も壊れてしまう絶間(堤の切り口)が二箇所存在した。


この時、仁徳天皇の夢に河の神が現れて、

武蔵で暮らす、絶間の治水技師「強頸」
河内の豪族「茨田連衫子」

この二人を生贄として捧げれば、治水工事は成功すると告げる。


捕われた二人はそれぞれ二箇所の絶間に連行されてしまう。

強頸は絶間に投げ込まれ、悲壮な声を上げながらやがて川に沈んでしまい人柱となった

一方の衫子は、「本物の神ならばこのヒョウタンを沈めてみせよ」と言って中身が空のヒョウタンを絶間に投げ込む。

軽くて水に浮くヒョウタンは沈むことなく川を流れ、その策によって衫子は難を逃れたと伝わる。



・・・壮絶。

道に迷ってたら壮絶なものが出てきた。


仁徳天皇の時代は西暦300~400年辺り。
この「強頸絶間」は1600年以上前の伝承という事になる。

遥か遠い昔の話が、平成の現代にも伝わっているというのは感慨深いですよね。



1122_05

残念ながら絶間の跡はもうここには残っていないそうです。


しかし、遭難しながら写真を撮っていた
この日の私にはそんな事を知る由もありません。

このいかにもな感じで置かれた石を見て

「ほほ~、これが当時の堤防の石か。ほっほ~」

と何かを悟った顔をして写真を撮ってたはずです。



1122_06

「何かあるかな?」と思って
案内板の横の道を写真に収めていました。

あるわけがない。


ちなみに大正5年に作られた「強頸絶間」の石碑が残っているのらしいのですが、

こちらは一般家庭の敷地内にあるらしく公開はされていないとか。




1122_07

案内板の向かいにある古い家の石垣が妙に高かったので、気になって写真に収めていたようです。

昔この辺りは川が流れていたらしく、
この高い石垣はその当時の名残なのだとか。

強頸絶間とはあまり関係なさそうですね。



1122_08

そういえば人柱に選ばれたもう一人「茨田連衫子」が難を逃れたという方の絶間ですが、

そちらは現在の「寝屋川市の太間」にあったという伝承があるそうです。

時代の変化で「絶間=太間」となったのでしょうね。



1122_09

思わぬ収穫となった「強頸絶間」の案内板。

道に迷って遭難した際には、是非一度訪れてみてください。




ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。

※この記事の写真は2017年10月に撮影したものです。


【強頸絶間(こわくびのたえま)】