この日は中央区にある

大阪メトロ・淀屋橋駅を下車。
※(よどやばし えき)


淀屋橋エリアは

大阪におけるビジネスの中心地で、

平日は大勢の人が街を往来しています。



1225_01

駅から南東の辺りを徘徊していると、

ビルとビルの間の植え込みに

細長い石碑
が建っているのを発見。


さっそく確認してみることに。



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碑には

「北組惣会所址」
※(きたぐみ そうかいしょ あと)

と刻まれていた。


「址=跡」なので、この辺りに

北組惣会所のというものがあったようだ。



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発見した場所は

中央区の平野町3丁目


有名なホテルチェーンの

「東横イン 淀屋橋駅南」の植え込みに

ひっそりと石碑が生えていた。


石碑とセットで建物を撮りたい。
でも上の東横インの看板が入らない…。

ここ、道が狭いから無理やろな。


嫁のまーさんが言うように

ここは一方通行の道路で

道幅がかなり狭くなっている。


看板は全く見えないけど、

写真の右側の茶色い建物が

「東横イン」なので

なんとかそれで納得していただきたい。



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大阪市教育委員会が設置している

史跡の案内板を発見。


葉っぱがパラパラと落ちていて

文字を隠していた……。


ウェェエエ~イッ!

葉っぱがウェーイしとるで…。


ちょっと邪魔なので

ウェーイ達を手で払い除けた。



1225_05

案内板の解説文。


詳細については写真をご覧ください。

簡単にまとめた内容を

以下に記していきます。




「北組惣会所跡」
※(きたぐみ そうかいしょ あと)

江戸時代の大阪の町は、
『北組・南組・天満組』の三組に分かれており、
総称して「大阪三郷」と呼ばれた。

各組には「惣会所」が設置され、
町の行政を担当するなどの自治が認められていた。

この地は北組の惣会所が存在した。

※(大阪三郷=おおさか さんごう)




要約すると

『江戸時代、地域の行政管理所が
 この場所に存在した』

ということですね。



現代の仕組みで例えると、

『組』「区」『惣会所』「役所」

……に近いものです。



ちなみに江戸時代頃は

「大阪→大坂」表記なので

「大坂三郷」という漢字が正確なようです。


案内板に書かれていた漢字が

「大阪」表記だったため、

説明もそれに合わせました。


一応、参考までに……。



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案内板の左側に描かれた絵図。

幕末頃の大坂三郷の地図だ。


地図の中央右側にある

「御城=大阪城」のこと。


大阪城の南端を西へ走る「本町通」を境に

『北組』『南組』に分かれていたようだ。


そして『北組』から大川を越えた

さらに北側のエリア

もう一つの組である『天満組』とのこと。
※(てんま ぐみ)


天満組って前に石碑見かけた気がする。

まーさんのくせによく覚えてたね。

ウチをナメるな!




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……ちょっと場所が変わって

ここは以前訪れた、北区の天満


この写真が、その時に発見した

「天満組惣会所跡の碑」です。
※(てんま ぐみ そうかいしょ あと の ひ)



こちらについては

記事の最後にリンクを貼りますので、

興味のある方はご覧ください。



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……話を戻して、碑の右側面

こちらには何も書かれていない。




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碑の左側面。

こちらも何も書かれておらず。




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狭くて暗くて確認しにくい碑の裏側

……よりによって何か書いてある。




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んギギ…いっひイィンっ…!


隙間から手を伸ばして撮ったら

スマホを落としかけて変な声が出た。



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……何とか必死に撮影を試みた結果、

「大正8年 大阪府」

と刻まれていることが分かった。


大正8年(1919年)ということは

ほぼ百年前に建てられたようだ。

思いのほか古い石碑だ。



1225_12

江戸時代の大坂三郷の一つ、

北組の痕跡を示す

「北組惣会所跡」の碑



近くを通り掛かった際は

ぜひ眺めていってみてください。



※この記事の写真は2020年6月に撮影したものです。




※話に出てきた「天満組惣会所跡の碑」はこちらからどうぞ。





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【「北組惣会所跡」の碑】



最寄り駅は
京阪電車・淀屋橋駅
大阪メトロ・淀屋橋駅

駅から御堂筋を南に進んで、
「野村證券ビル」の角を東に曲がると石碑があるよ!