この日は中央区にある
大阪メトロ・淀屋橋駅を下車。
※(よどやばし えき)
※(よどやばし えき)
淀屋橋エリアは
大阪におけるビジネスの中心地で、
大阪におけるビジネスの中心地で、
平日は大勢の人が街を往来しています。
駅から南東の辺りを徘徊していると、
ビルとビルの間の植え込みに
細長い石碑が建っているのを発見。
さっそく確認してみることに。
碑には
「北組惣会所址」
※(きたぐみ そうかいしょ あと)
と刻まれていた。
「址=跡」なので、この辺りに
北組惣会所のというものがあったようだ。
発見した場所は
中央区の平野町3丁目。
有名なホテルチェーンの
「東横イン 淀屋橋駅南」の植え込みに
ひっそりと石碑が生えていた。
石碑とセットで建物を撮りたい。
でも上の東横インの看板が入らない…。
ここ、道が狭いから無理やろな。
嫁のまーさんが言うように
ここは一方通行の道路で
道幅がかなり狭くなっている。
道幅がかなり狭くなっている。
看板は全く見えないけど、
写真の右側の茶色い建物が
写真の右側の茶色い建物が
「東横イン」なので
なんとかそれで納得していただきたい。
大阪市教育委員会が設置している
史跡の案内板を発見。
葉っぱがパラパラと落ちていて
文字を隠していた……。
ウェェエエ~イッ!
葉っぱがウェーイしとるで…。
ちょっと邪魔なので
ウェーイ達を手で払い除けた。
案内板の解説文。
詳細については写真をご覧ください。
簡単にまとめた内容を
以下に記していきます。
「北組惣会所跡」※(きたぐみ そうかいしょ あと)江戸時代の大阪の町は、『北組・南組・天満組』の三組に分かれており、総称して「大阪三郷」と呼ばれた。各組には「惣会所」が設置され、町の行政を担当するなどの自治が認められていた。この地は北組の惣会所が存在した。
※(大阪三郷=おおさか さんごう)
要約すると
『江戸時代、地域の行政管理所が
この場所に存在した』
『江戸時代、地域の行政管理所が
この場所に存在した』
ということですね。
現代の仕組みで例えると、
現代の仕組みで例えると、
『組』は「区」、『惣会所』は「役所」
……に近いものです。
ちなみに江戸時代頃は
「大阪→大坂」表記なので
案内板に書かれていた漢字が
「大阪」表記だったため、
「大阪→大坂」表記なので
「大坂三郷」という漢字が正確なようです。
案内板に書かれていた漢字が
「大阪」表記だったため、
説明もそれに合わせました。
一応、参考までに……。
案内板の左側に描かれた絵図。
幕末頃の大坂三郷の地図だ。
地図の中央右側にある
「御城=大阪城」のこと。
大阪城の南端を西へ走る「本町通」を境に
『北組』と『南組』に分かれていたようだ。
そして『北組』から大川を越えた
さらに北側のエリアが
もう一つの組である『天満組』とのこと。
※(てんま ぐみ)
※(てんま ぐみ)
天満組って前に石碑見かけた気がする。
まーさんのくせによく覚えてたね。
ウチをナメるな!
……ちょっと場所が変わって
ここは以前訪れた、北区の天満。
ここは以前訪れた、北区の天満。
この写真が、その時に発見した
「天満組惣会所跡の碑」です。
※(てんま ぐみ そうかいしょ あと の ひ)
※(てんま ぐみ そうかいしょ あと の ひ)
こちらについては
記事の最後にリンクを貼りますので、
記事の最後にリンクを貼りますので、
興味のある方はご覧ください。
……話を戻して、碑の右側面。
こちらには何も書かれていない。
碑の左側面。
こちらも何も書かれておらず。
狭くて暗くて確認しにくい碑の裏側。
……よりによって何か書いてある。
んギギ…いっひイィンっ…!
「大正8年 大阪府」
と刻まれていることが分かった。
大正8年(1919年)ということは
ほぼ百年前に建てられたようだ。
思いのほか古い石碑だ。
江戸時代の大坂三郷の一つ、
北組の痕跡を示す
「北組惣会所跡」の碑。
近くを通り掛かった際は
ぜひ眺めていってみてください。
※この記事の写真は2020年6月に撮影したものです。
※話に出てきた「天満組惣会所跡の碑」はこちらからどうぞ。
【「北組惣会所跡」の碑】
最寄り駅は
京阪電車・淀屋橋駅
大阪メトロ・淀屋橋駅
駅から御堂筋を南に進んで、
「野村證券ビル」の角を東に曲がると石碑があるよ!
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