本日は昨日と同じ場所。


大阪市は天王寺区にある
※(てんのうじ く)

近鉄・大阪上本町駅の周辺を
※(おおさか うえほんまち えき)

散策した時のお話です。



0522_01

駅からやや北東、

「東高津公園」の北西角にある交差点で
※(ひがしこうづ こうえん)

不思議な一角を発見。



0522_02

この小さな一角は

「傳光寺」というお寺の跡地。
※(でんこうじ)


当時、お寺にあった石碑などを

安置している場所だと判明しました。



0522_03

そんな一角の左隅に

2基の古いお墓

寄り添うように並んでいました。


有名な人のお墓かな?

結構昔のお墓みたいやね。
今のお墓より小さい感じやなー。


現代のお墓と比べて、

二回りくらい小さな印象の墓石。


大阪の有名なお寺「四天王寺」

江戸時代のお墓を見たことがあるけど、

それと同じような大きさだ。



0522_04


お墓の横にあるコレ、何やろな?

本当だ。
何か書いてあるのかな?


嫁のまーさん謎の石柱を発見。

確認してみることに。



0522_05

石柱には

「梅忠ノ牌」
※(うめちゅう の はい)

と刻まれていた。


「碑」ではなく「牌」

「位牌」と同じ漢字なので

お墓っていう意味かな?



詳細が無いので調べてみたところ、

こちらは「近松門左衛門」が作った
※(ちかまつ もんざえもん)

浄瑠璃『冥土の飛脚』のモデルとなった
※(めいどのひきゃく)


「梅川」と「亀屋 忠兵衛」のお墓


であることが分かった。



0522_06

……ここでいきなり場面転換。


こちらは以前、中央区の淡路町で発見した

「梅川・忠兵衛 ゆかりの淡路町の碑」です。


この時に知った、梅川忠兵衛のお話が

少し離れたこの天王寺区で

繋がってくるとは思いませんでした。



こちらについては

記事の最後にリンクを貼っておきますね。



0522_07

「梅川」「忠兵衛」

悲恋話を知らない方のために、

以前の記事から内容を転載します。



「梅川と亀屋忠兵衛」
※(うめかわ と かめや ちゅうべえ)

江戸中期の宝永年間(1704~1711年)
大坂淡路町の亀屋の飛脚に
「亀屋 忠兵衛」という男がいた。

忠兵衛は新町の遊女「梅川」に入れ込み、
店の金に手をつけて彼女を身請けした。

二人は忠兵衛の故郷に身を隠すが捕まり、
牢獄送りとなった。

※(身請け=遊女から身を引かせること)




この悲恋話を元に

浄瑠璃『冥途の飛脚』を生み出したのが

あの有名な「近松門左衛門」です。



資料によると、こちらのお墓は

安政年間(1855~1860年)のものとのこと。


二人の時代から100年以上経過してから

建てられたお墓のようですね。



0522_08

左側のお墓。

「梅室妙覚信女」

と書かれている。


「梅」の字が入っているので

こちらが梅川さんのお墓です。



0522_09

左側のお墓の左側面。

「俗名槌屋抱梅〇」

と書かれている。


劣化が激しいため『〇』の部分が

読みにくいけど、

おそらく「梅川」だと思われる。



0522_10

右側のお墓。

「妙法 頓覚利達」

と書かれている。


忠兵衛の文字は無いけど

消去法で考えて忠兵衛さんのお墓だ。


2段目の土台には

「塩平」という字が彫ってある。

……これは何だろう?



0522_11

右側のお墓の左側面。

何かが書かれているけど

劣化が激しくて判読できず……。


かろうじて

「〇〇屋忠〇〇」

と書いてあるように見えるので


「俗名亀屋忠兵衛」

という文字だと思われる。



0522_07

前に見つけた石碑と繋がってくるとは思わへんかったなー。

お墓があると『本当に実在した人達』って感じが強くなるね。

なんか肌がザワッてなったわ。
あっ、手合わせておかな。


まーさんと二人で

梅川さん、忠兵衛さんのご冥福を

祈らせてもらいました。


普段ふざけて生きてる私達ですが

お墓などの前では慎むようにしています。



0522_03

浄瑠璃『冥土の飛脚』のモデルとなった

「梅川」と「亀屋 忠兵衛」の墓石。



通り掛かった際は少し足を止めて

手を合わせていただけたらと思います。



※この記事の写真は2019年9月に撮影したものです。




話に出てきた中央区淡路町の石碑についてはこちらから。





↓↓ブログランキングに参加中です↓↓
  よかったら押していってね






【梅忠の牌(梅川・忠兵衛の墓石)】



最寄り駅は
近鉄・大阪上本町駅

「司天生 福田先生乃碑」の顕彰碑もここにあるよ!