本日は昨日と同じ場所。
大阪市は天王寺区にある
※(てんのうじ く)
近鉄・大阪上本町駅の周辺を
※(おおさか うえほんまち えき)
散策した時のお話です。
駅からやや北東、
「東高津公園」の北西角にある交差点で
※(ひがしこうづ こうえん)
不思議な一角を発見。
この小さな一角は
「傳光寺」というお寺の跡地。
「傳光寺」というお寺の跡地。
※(でんこうじ)
当時、お寺にあった石碑などを
安置している場所だと判明しました。
安置している場所だと判明しました。
そんな一角の左隅に
2基の古いお墓が
寄り添うように並んでいました。
2基の古いお墓が
寄り添うように並んでいました。
有名な人のお墓かな?
結構昔のお墓みたいやね。
今のお墓より小さい感じやなー。
現代のお墓と比べて、
二回りくらい小さな印象の墓石。
大阪の有名なお寺「四天王寺」で
江戸時代のお墓を見たことがあるけど、
それと同じような大きさだ。
お墓の横にあるコレ、何やろな?
本当だ。
何か書いてあるのかな?
嫁のまーさんが謎の石柱を発見。
確認してみることに。
石柱には
「梅忠ノ牌」
※(うめちゅう の はい)
と刻まれていた。
「碑」ではなく「牌」。
「位牌」と同じ漢字なので
お墓っていう意味かな?
詳細が無いので調べてみたところ、
こちらは「近松門左衛門」が作った
※(ちかまつ もんざえもん)
浄瑠璃『冥土の飛脚』のモデルとなった
※(めいどのひきゃく)
※(めいどのひきゃく)
「梅川」と「亀屋 忠兵衛」のお墓
であることが分かった。
……ここでいきなり場面転換。
こちらは以前、中央区の淡路町で発見した
「梅川・忠兵衛 ゆかりの淡路町の碑」です。
この時に知った、梅川と忠兵衛のお話が
少し離れたこの天王寺区で
繋がってくるとは思いませんでした。
こちらについては
記事の最後にリンクを貼っておきますね。
「梅川」と「忠兵衛」の
悲恋話を知らない方のために、
以前の記事から内容を転載します。
「梅川と亀屋忠兵衛」※(うめかわ と かめや ちゅうべえ)江戸中期の宝永年間(1704~1711年)大坂淡路町の亀屋の飛脚に「亀屋 忠兵衛」という男がいた。忠兵衛は新町の遊女「梅川」に入れ込み、店の金に手をつけて彼女を身請けした。二人は忠兵衛の故郷に身を隠すが捕まり、牢獄送りとなった。※(身請け=遊女から身を引かせること)
この悲恋話を元に
浄瑠璃『冥途の飛脚』を生み出したのが
あの有名な「近松門左衛門」です。
資料によると、こちらのお墓は
安政年間(1855~1860年)のものとのこと。
二人の時代から100年以上経過してから
建てられたお墓のようですね。
左側のお墓。
「梅室妙覚信女」
と書かれている。
「梅」の字が入っているので
こちらが梅川さんのお墓です。
左側のお墓の左側面。
「俗名槌屋抱梅〇」
と書かれている。
劣化が激しいため『〇』の部分が
読みにくいけど、
おそらく「梅川」の川だと思われる。
右側のお墓。
「妙法 頓覚利達」
と書かれている。
忠兵衛の文字は無いけど
消去法で考えて忠兵衛さんのお墓だ。
2段目の土台には
「塩平」という字が彫ってある。
……これは何だろう?
……これは何だろう?
右側のお墓の左側面。
何かが書かれているけど
劣化が激しくて判読できず……。
かろうじて
「〇〇屋忠〇〇」
と書いてあるように見えるので
「俗名亀屋忠兵衛」
という文字だと思われる。
前に見つけた石碑と繋がってくるとは思わへんかったなー。
お墓があると『本当に実在した人達』って感じが強くなるね。
なんか肌がザワッてなったわ。
あっ、手合わせておかな。
まーさんと二人で
梅川さん、忠兵衛さんのご冥福を
祈らせてもらいました。
普段ふざけて生きてる私達ですが
お墓などの前では慎むようにしています。
浄瑠璃『冥土の飛脚』のモデルとなった
「梅川」と「亀屋 忠兵衛」の墓石。
通り掛かった際は少し足を止めて
手を合わせていただけたらと思います。
※この記事の写真は2019年9月に撮影したものです。
話に出てきた中央区淡路町の石碑についてはこちらから。
【梅忠の牌(梅川・忠兵衛の墓石)】
最寄り駅は
近鉄・大阪上本町駅
「司天生 福田先生乃碑」の顕彰碑もここにあるよ!
コメント