この日は大阪城の南東にある
大阪メトロ・玉造駅の周辺を散策。
駅から南にある
「真田山公園」の辺りを歩いていました。
※(さなだやま こうえん)
「真田山公園」から一本西に入った
お寺が密集している道を進んでいると、
左手のフェンス前に
大きな石碑が建っているのを発見。
岩のように巨大な石碑。
碑文や絵図が埋め込まれているタイプで
まだ新しい感じだ。
まだ新しい感じだ。
地図で調べてみると、
ここは天王寺区餌差町の
ここは天王寺区餌差町の
「明星学園」であることが判明。
※(めいせいがくえん)
碑には
「真田丸顕彰碑」
※(さなだまる けんしょうひ)
と刻まれていた。
あっ!
ここが真田丸の跡地か!
あー!
そういえば高校のグラウンドが真田丸跡やって話があったなー。
「真田丸」というのは
戦国時代の武将「真田 幸村(信繁)」が
※(さなだ ゆきむら=のぶしげ)
大坂城の南側に築いた出城のこと。
NHK大河ドラマ「真田丸」が放映されたことで
一躍有名になりました。
一躍有名になりました。
中央の碑文。
「真田幸村」の略歴と
「真田丸」について書かれている。
詳細は写真をご覧ください。
簡単にまとめた内容を
以下に書き記していきます。
「真田丸 顕彰碑」※(さなだまる けんしょうひ)慶長19年(1614年)10月豊臣と徳川の戦「大坂冬の陣」が勃発。「豊臣秀頼」に招かれ「真田幸村」が大坂城へ入城する。幸村は出城・真田丸を構築し、徳川方の武将「前田利常」「井伊直孝」「松平忠直」「藤堂高虎」を手玉に取った。
別史料によると、
「真田丸」を築いた幸村は
「真田丸」を築いた幸村は
正面に布陣する「前田 利常」を挑発。
※(まえだ としつね)
※(まえだ としつね)
真田丸に攻撃を仕掛けた前田軍に
井伊・松平の軍が続いたものの、
真田丸からの猛反撃を受けて
撤退を余儀なくされたとのこと。
「真田丸」が攻守ともに優れ、
堅強だったことがうかがえます。
堅強だったことがうかがえます。
右側の絵図は
「『大坂冬の陣』の布陣図」。
中央の四角い囲いが大坂城で、
その右下側にくっついてる
カマボコみたいな形のヤツが
カマボコみたいな形のヤツが
「真田丸」とのこと。
左上の絵図は江戸時代に描かれた
「大坂三郷町絵図」。
赤丸で囲われてる部分に
「真田丸跡」と書いてある。
この史料が真田丸の位置を裏付ける
証明になったようだ。
左下の絵図は
「大坂冬の陣図屏風」の一部分。
「真田丸」の中で徳川軍と対峙する
真田軍の様子が描かれている。
「大坂冬の陣」の後、和議の条件として
真田丸は跡形も無く破壊され、
埋め立てられてしまったとのこと。
跡地の詳細は不明のまま時代が流れ、
歴史資料が見つかる近年まで
場所を特定できなかったようです。
2016年の発掘調査で遺構らしきモノが見つかったらしいよ!
ちょっと失礼して裏側を確認。
平成28年1月に建立。
かなり最近に建てられたものだ。
周りの写真も撮っとこ。
あぁそうやね。
この辺ってめっちゃ坂道が……
なぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!?
!?
まーさんが急に叫んだ。
後ろの巨大な仏像に驚いたらしい。
あちらは「興徳寺」というお寺さんの
※(こうとくじ)
「准低観音」だそうで、
※(じゅんでいかんのん)
約10mもある仏像とのこと。
はぁー…。
進撃の巨人かと思ったわ…。
仏像にあやまれ。
真田丸跡地(推定)に建つ
「真田丸 顕彰碑」。
近くを通り掛かったら
ぜひ眺めていってみてください。
※この記事の写真は2019年9月に撮影したものです。
【真田丸 顕彰碑】
最寄り駅は
JR環状線・玉造駅
大阪メトロ・玉造駅
「明星学園」東側の坂道に顕彰碑があるよ!
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