※今日はちょっと疲れてるので色々と適当になってしまいそうです。
そんな感じで見てください。
この日は天王寺区の上の方にある
近鉄・大阪上本町駅の周辺を散策。
※(おおさか うえほんまち えき)
※(おおさか うえほんまち えき)
それでなんかアレ、あっちの方。
駅から北方向の道を歩いていました。
どっかの公園沿いを歩いていると
でっかい岩を発見。
『石碑っぽい気がする』と思ったので
さっそく確認してみることに。
……ネタバレしちゃうけど
コレ、石碑なんですよ。
タイトルにも書いてあるしね。
石碑があったのは
中央区の上本町西にある
「東平北公園」。
……なんて読むんだろう?
今は調べる気力が無いので
未来の私が後で追記することを祈ろう。
正面に回り込んでみる。
とっくに皆さんご存知だが、やはり石碑だった。
キレイな四角型だなぁ。
溝のせいで、豆腐が入ってるパックに見える…。
巨石を豆腐パック呼ばわりする
嫁のまーさんと一緒に
さっそく内容を確認してみることに。
なんか書いてある石碑。
手前にある石台は案内板のようだ。
あと写真の右端に人が写り込んでいた。
いつもはぼかし加工をしてるけど
疲れてるからブラックホールにしちゃえ。
案内板を確認。
石碑は文学碑のようで、
文学者の説明が書かれている。
疲れて文章力が低下してるタイミングで
文学碑の登場とは……。
失礼があってはいけないので
ここだけは丁寧に書いていきます。
「薄田泣菫 文学碑」※(すすきだ きゅうきん ぶんがくひ)「薄田泣菫」は明治~昭和初期に活躍した詩人。明治10年(1877年)に岡山県に生まれる。若くして大阪へ出ると文芸雑誌で詩を発表。象徴派詩人として認められ名声を得た。大正始めに大阪毎日新聞社へ入社。これを機に詩作を離れ、随筆家として活動する。昭和20年(1945年)、難病を患い、没する。
「薄田 泣菫」氏は
明治時代に活躍した詩人で、
この上町にある「本長寺」というお寺に
寄宿していたとのこと。
※(寄宿=住ませてもらうこと)
詩を作っていた時代に
この辺りに住んでいたため、
文学碑が残されているんですね。
石碑に刻まれているのは
薄田泣菫氏の「金剛山の歌」。
金剛山の雄大さや
自然の豊かさを詠んでいます。
今はマンションに囲まれていますが、
当時はこの辺りから
美しい金剛山が見えていたようです。
詩の詳細は写真をご覧ください。
せっかくなので
石碑の裏や側面も確に……
……なんか自転車がポイーされてる。
……なんか自転車がポイーされてる。
……自転車…。
……自転車やな…。
ふきだしの指示を入力するのが面倒くさい。
実はこれ毎回手作業でやってるんよ。
石碑の側面。
溝が沢山刻まれている。
石碑の裏面。
大阪市が平成元年3月に建立した模様。
…乗ってみる?
アカンやろ。
どっかの子どものヤツやで。
あー。そうか。
・・・・・・。
……乗ってみる?
なんでやんねん!
乗らへんわ!
ふきだし疲れるわー。
もう全部草でいいや。
未来の私がそのうち直すだろう。
……大体なんなんだ?首から上しかないくせに
毎回コロコロ表情変わりやがって!
なんちゃら公園の様子。
遊具と草と木がある、のどかな公園だ。
木陰ではママさん達が敷物を敷いて
子どもと楽しそうに遊んでいた。
ブラックホールにしちゃってごめん。
大阪滞在時に数々の詩を詠んだ
「薄田 泣菫」の文学碑。
近くを通り掛かったら
ぜひ眺めていってみてください。
※この記事の写真は2019年9月に撮影したものです。
【薄田泣菫の文学碑】
最寄り駅は
近鉄・上本町駅
大阪メトロ・谷町九丁目駅
「東平北公園」の南西角に文学碑があるよ!
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