この日は大阪城から少し南にある

大阪メトロ・玉造駅の周辺を散策。
※(たまつくり えき)


駅の北方向に鎮座する

「玉造稲荷神社」の付近を
※(たまつくり いなりじんじゃ)

フラフラと歩いていました。



0212_01

神社のほぼ裏手にある

「市立玉造小学校」の横を通っていると、

生け垣に埋もれそうな石碑を発見。



0212_02

の群れに覆われて

天空の城ラピ〇タになりつつある石碑。

間違いなく「旧町名継承碑」だ。



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真向かいの「市立玉造小学校」

……位置的に裏門かな?

とにかくここが目印だ。


あぁーアレかー。

へ?

アレだー。
ウチの子どももそろそろ通うのかー。

…はい?
急に何言い出してん?


学校のすぐ前の石碑を撮っていても

不審者に思われないようにと画策した

の完璧なる演技を

嫁のまーさんが打ち砕いた。


空気を読んでいただきたい。



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ジブリうぇーい!

ハヤオうぇぇーい!!


オマエらいつも元気だなっ。


中央の青いプレートが見えるように

草どもがカットされていたので、

安心して確認することができる。



0212_05

どうやらこの辺りは昔、

「半入町」

という町名だったようだ。


何て読むんだろう…?

なかなか難しいパターンきたで。

はん…はん…?
はん…何だ?


後で調べてみたところ、

「はんにゅう ちょう」

と読むことが分かった。



0212_06

光の反射で少し読みにくいですが

詳細は写真をご覧ください。

「半入町」に関する部分のみ

以下に抜粋していきます。



「半入町」
※(はんにゅう ちょう)

明治5年3月
当町は大坂三郷北組の半入町全域と拐屋町の一部、
南組の栢木町の一部をもって「半入町」となった。

明治30年4月
大阪市東区に編入。
「玉造大学西玉造字半入町」となる。

明治33年4月
再び「半入町」となる。

昭和54年2月
住居表示の実施にともない「半入町」は、
森ノ宮中央二丁目・玉造二丁目の各一部となった。

町名の由来は
豊臣秀頼の側室「お愛」の実父、
「青木 半入」の居宅が所在したことから。




「青木(前波) 半入」という人物は

おそらく「前波 勝秀」という武将で、
※(まえば かつひで)

豊臣秀吉に仕えていました。


残念ながら史料が乏しく、

『半入に娘がいた』

『秀頼の側室に「お愛」がいた』

といった情報は定かではありません。




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豊臣時代の大坂城

現代の大阪城公園よりも城域が広く、

この辺りは豊臣家ゆかりの

武将達の屋敷があった場所と推定されてます。



当地に「半入」の屋敷があったのは

おそらく間違いないと思われます。



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戦国時代の武将の名前が由来となった

「半入町」の旧町名継承碑


近くを通り掛かったら

ぜひ眺めていってみてください。



※この記事の写真は2019年6月に撮影したものです。


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【旧町名継承碑「半入町」】



最寄り駅は
大阪メトロ・森ノ宮駅
大阪メトロ・玉造駅

MAPの「市立玉造小学校」北側のマンションの生け垣にあるよ!