この日は

JR環状線・玉造駅の周辺を散策。
※(たまつくり えき)


駅は天王寺区の管轄ですが、

天王寺区、中央区、東成区という

3つの区の境目にあります。



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ここは駅の北側を東西に走る

「長堀通」という大通り。



信号待ちをしていると

反対側の歩道に石碑を発見しました。


からあげ屋さんとラーメン屋さんの

ちょうど中間辺りです。



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さっそく信号を渡ってみる。


こちら側に来てから気づいたけど

建っている石碑が2つあった。



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右側の碑には

「玉造名所 二軒茶屋 石橋 旧跡」


左側の碑には

「二軒茶屋 跡」


と刻まれている。



どうやらこの辺りは

2つの茶屋があった跡地で、

かつ、石橋があった場所らしい。



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親切なことに、石碑の後ろに

案内板が設置されていた。

サンキュー東成区役所。



案内板と他の史料の話を合わせて

詳細を以下に記していきます。


「二軒茶屋」
※(にけん ぢゃや)

江戸時代、当地は旧奈良街へと続く、
「暗越奈良街道」の大阪側の出発点だった。

当時この場所には
「つる屋」「ます屋」という茶屋があり、
「二軒茶屋」と呼ばれ旅人に利用された。

茶屋は明治中頃まで存在した。



ここは江戸時代の街道の出発点

2軒の茶屋が並んでいたんですね。


茶屋と言えば天満駅の近くの

「八軒茶屋」が有名ですが、

玉造にも存在していたようです。



……次は、石橋の詳細です。


「石橋(黒門橋)」
※(いしばし くろもんばし)

慶安3年(1650年)
二軒茶屋の側を流れる「猫間川」
幕府の命令で石橋が架けられた。

当時付近にあった
坂城の玉造門が黒塗りであったため、
石橋は「黒門橋」という名付けられた。



江戸時代は木製の橋が主流で

当時、石橋は珍しかったそうです。

交通の要所であったことがうかがえますね。



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仲良く2つ並んでいる石碑。


「二軒茶屋」の石碑が2つあるんやな。

そういえばそうだね。

二軒茶屋だから2つ並んでるんじゃないの?

あーなるほど。

それウチが言ったことにならへん?


……ならねェよ。



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右の石碑の右側面。

「寶永8年12月朔日 架橋」

と刻まれている。


「寶永」「宝永」の古い字。

寛永と似ていて紛らわしいね……。



石橋が架けられた時期は諸説あって、

背後の案内板に書いてあった

「慶安3年(1650年)」の説と

「宝永8年(1711年)」の説があります。



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右の石碑の左側面と裏面。

碑は昭和5年10月に建立


当時、この辺りの町名だった

「中道黒門町」「正立會」という

有志の方々によって建てられたようです。



大阪市の情報サイトによると、

この碑の石材は

石橋(黒門橋)の残石とのこと。


……実はすごい石碑なんですね。



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左の碑の右側面。


「二軒茶屋」について

簡単な説明が刻まれている。

詳細は写真をご覧ください。



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左の碑の左側面。

上に乗せられているゴミが気になる……。


こちらの碑は

昭和52年3月に大阪市が建立



「二軒茶屋」が大阪市の史跡に登録されて

新たにこの石碑が建てられたため、

新旧の2つが並ぶことになった。


……という経緯かな。



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碑から左側を眺めた風景。

「玉造駅」と書かれた

JR環状線の高架が見える。



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江戸時代、この辺りが

大阪から奈良への出発点だったことを示す

「玉造名所 二軒茶屋・石橋 旧跡」の碑



玉造駅のすぐ近くにあるので

ぜひ眺めていってみてください。



※この記事の写真は2019年5月に撮影したものです。


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【玉造名所 二軒茶屋・石橋 旧跡】



最寄り駅は
JR環状線・玉造駅
大阪メトロ・玉造駅

駅から「長堀通」を東に進むと石碑があるよ!