この日は
大阪キタの歓楽街・北新地がある
「堂島」の町を散策しました。
※(どうじま)
ここは堂島の西端。
堂島川に隣接するこの場所には、
「NTTテレパーク堂島」という
NTT西日本の施設があります。
テレパーク専用と思われる駐車場。
『おっ!?』
『あそこ石碑がいっぱい並んでる!』
『本当だ!』
車の陰に隠れるように
石碑が3つも並んでいた。
『ウチが見つけた』
『うん』
『もっと感謝しなさい』
『ありがとう。
お礼にコレをあげよう』
『んん…? 何コレ…?』
『変なメダル。昨日拾った』
『いらんわっ!
変なモン拾うな!』
『英語でフレッシュって
書いてあるんだよ、ほれっ』
『…ちょ、いらんっ!
いらんっちゅーねんっ!』
恩着せがましい嫁のまーさんに
得体の知れないメダルを押しつけて
さっそく石碑を確認しにいく。
一番左側の石碑。
車と車の間でちょっと狭い……。
でもテレパークが敷地に
石碑を置いてくれているから、
一般人の私達が拝めるのだ。
贅沢を言ってはいけない。
テレパークが何なのか知らないけど。
1つ目の碑には
「五代友厚製藍所西朝陽館跡」
と単語が凝縮されるように刻まれていた。
分かりやすくするために、
一つずつ区切って説明していきます。
「五代 友厚」
※(ごだい ともあつ)
幕末から明治にかけて活躍した実業家。
大阪の経済発展に貢献した重鎮。
「製藍所」
※(せいあいしょ)
「藍染め」で有名な「藍」の染料を
製造する会社・工場。
「西朝陽館」
※(にしちょうようかん)
「五代 友厚」が創業した製藍所の社名。
東京にも朝陽館があったため、
大阪は西朝陽館と呼ばれた。
……というわけで、この場所には
五代 友厚氏が経営する
「藍」の製造会社が存在したようです。
「藍」の製造会社が存在したようです。
碑の左側面。
狭かったため全体を撮影できず……。
この碑は
大阪市制の施行70周年を記念して
昭和35年3月に建立された。
『「五代 友厚」って五代様やんー』
『朝ドラで人気やった人やで』
『そうなんだ』
まーさんによると
NHK朝ドラマ「あさが来た」に登場した
かなり影響力のあるキャラだったらしい。
「五代 友厚」氏の名前は、
私も以前、別の石碑で見かけた気がする。
たしか、どこかの会社の目の前にあった
活版印刷所跡の碑に
名前が刻まれていたはず。
間違っていたらごめんなさい……。
こちらはお隣、2つ目の石碑。
「明治天皇聖躅」
※(めいじ てんのう せいちょく)
と刻まれている。
こちらは
『明治天皇がここに来たよ~』
という記念に建てられた碑。
建立されたのは
大正14年5月10日のようだ。
車を一つ避けて
明治天皇聖躅碑の右側面を確認。
「製藍所阯」
と刻まれていた。
「阯」は「跡」と同じ意味。
……当時の国産の藍は粗悪品で
インド産の輸入品に押されていたため、
五代氏が研究を重ねて製藍所を設立。
藍製品は海外に輸出するまでに至り、
国の経済に貢献。
その技術力の高さを認めに
明治天皇が製藍所を視察されました。
……という経緯が
この記念碑に込められています。
「五代友厚 製藍所西朝陽館跡」の碑
……の右側面。
……の右側面。
こちらは何も書かれておらず。
明治9年(1876年)に設立された
五代氏の製藍所「西朝陽館」は、
次第に輸入品に押されて業績が悪化。
明治16年(1883年)に閉鎖となりました。
現在は
「NTTテレパーク堂島」の敷地となり、
当時の建物等の痕跡は残っていません。
明治天皇聖躅碑の裏側。
「大阪市青年聨合團 建立」
と刻まれている。
「聨合團」は
「れんごうだん」と読みます。
ちなみに一番右、3つ目の碑は
「大村藩蔵屋敷跡」の碑。
こちらの蔵屋敷跡の碑は
今回の碑とは関係性が薄かったため、
また改めて紹介する予定です。
かつてこの場所に
製藍所があったことを伝える
「五代友厚 製藍所西朝陽館跡」の碑と
「明治天皇聖躅」の碑。
近くを通り掛かったら
ぜひ眺めていってみてください。
車が駐車している際は
接触しないように配慮をお願いします。
※この記事の写真は2019年1月に撮影したものです。
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【「五代友厚 製藍所西朝陽館跡」の碑】
最寄り駅は
京阪電車・渡辺橋駅
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