この日は阿倍野区のほぼ中心を貫く
※(あべの く)

あべの筋沿いにある町、

「王子町」を訪れました。



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王子町の3丁目辺りに着くと

ちょっと広い公園を発見。


「北畠公園」という公園らしい。
※(きたばたけ こうえん)



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公園出入口の横に

大きな案内板があった。


「北畠顕家公 由緒記」

と書いてある。


どうやらこの北畠公園

史跡的な場所らしい。



『北畠…誰だろう?
 知ってる?』

『うーん…』

『歴史上の人物ちゃうかな?』

『…そりゃそうでしょうよ』



学生時代に歴史を勉強してこなかった

はもちろんのこと、

一緒に歩く嫁のまーさん

知らない名前だった。



歴史好きの人がこの無知っぷりを見たら

怒りそうだなあ……。


……怒らないでね。



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由緒記の案内板を正面から。

ものっすごい量の説明が書いてある。


詳細は写真をご覧いただくとして、

簡単にまとめた内容を

以下に書き記していきます。



「北畠顕家公 由緒記」
※(きたばたけ あきいえ こう ゆいしょき)


北畠顕家は南北朝時代の公卿・武将
※(公卿=くぎょう=天皇に仕える身分の高い役人)

1333年、16歳の若さで陸奥守に任命される。
※(陸奥は現在の青森・岩手・宮城・福島と秋田県の一部。
  陸奥守=むつのかみ=その地方の統括者のこと)


1336年「足利尊氏」が反乱を起こし、
※(あしかが たかうじ)

天皇の命を受けた顕家公が挙兵。

尊氏を打ち破り、九州へと敗走させた。


翌年の1337年、勢いを盛り返した尊氏が

京都へ侵攻したため再び討伐に出陣。


尊氏側の大将「高 師直」
※(こう の もろなお)

大阪府内で転戦を繰り広げたが、

和泉国石津の地で劣勢に追い込まれる。
※(和泉国石津=現在の大阪府堺市)

1338年、21歳の若さで戦死。



由緒を見ると、北畠顕家公

南北朝時代に活躍した人物のようです。


16歳で東北地方の統治を任されるほど

信頼と実績のある方だったんですね。



私が16歳の頃って何をやってたかな。

友達とゲームボーイを起動して

ポケモン交換してた頃かなあ……。


何だか申し訳ない気分になってきた。



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北畠公園の様子。


ベンチや砂場がある普通の公園だけど

奥の方に厳かな雰囲気の一角がある。



さっきの案内板の最後あたりに

「当墓は~~~」

と書いてあったので、

あそこに北畠顕家公のお墓

あるのだと思われる。



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舗装された道。

お墓らしき一角へと続いている。



『あそこがお墓みたいだね』

『あの塀…塀? 塀かなアレ?』

『塀ってほどでもないやろ』

『ミニ塀?』

『うーん…何て言うんやろな?』

『ミニ塀無視しないでくれる?』

『知らんわ』

『分からないと書く時に困るんだよね。
 名称とかあるのかな?』

『もう「囲い」とかでええやろ』



囲いになりました。



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囲いの前。

施錠された頑丈な柵があり、

中に入ることはできない。


柵内が綺麗なので

しっかり管理されているようだ。



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北畠顕家公のお墓。


遠くからだけど

手を合わせてご冥福を祈る。



墓石を確認すると、

亀のような石像の上に

文字が刻まれた墓石が建っているという

少し珍しい形をしていた。


遠くからだったため、

文字は判読できず……。



綺麗な仏花がお供えされていて、

中央には北畠家の家紋が見えた。



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右側にあった碑。


「北畠顕家卿墓

 北畠停留所ヨリ
 東北 三丁」


と刻まれている。


道標として設置されていた碑が

ここに移されたと思われる。



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碑の左側面。


少し難しいけど、

「亡き父の遺命で碑を建立した」

として建立者の方の名前が

刻まれているようだ。



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裏面。

碑は大正8年12月に建立。




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碑の隣にあった案内板


公園入口にあった

「北畠顕家公 由緒記」

と同じような案内板だった。


古くなったものを

こちらに設置したのだろう。




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左側にも案内板があった。

案内板いっぱいあるな。




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案内板、右側の絵図。

「住吉名勝図会」という

書物に描かれたものらしい。


「顕家卿 阿倍野合戦之図」

と書いてある。



絵図の左側の

馬に乗って武士を振り回している人物が

北畠顕家公かな?



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案内板の左側。


北畠顕家公は、最後となる出陣の前に

「北畠顕家 諫奏文」と呼ばれる文書を
※(諫奏文=かんそうぶん)

時の天皇であった後醍醐天皇に届けた、
※(ごだいご てんのう)

と伝わっています。



諫奏文とは

天皇に意見を申し上げる文書のこと。



顕家公後醍醐天皇の失政を

鋭い着眼点で批判、

いさめるようにと進言したそうで、


この案内板には諫奏文の内容

書かれています。



内容まで書くと大変なので

詳しく知りたい方は写真を見てね。



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囲いの周りを散策していると

隅の方に小さな碑を発見。



『…あきいえ? 顕家かな?』

『なんやろね?』

『横には大坂なんちゃらって
 書いてあるな…』



詳細はよく分からなかった。



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ぐるぐる回って墓碑の裏側へ。

柵がかなり高い。


過去に侵入者でもいたのかな?



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柵の上に手を伸ばして撮影してみる。


色々と調べてみたところ、

こちらのお墓がある場所には

「大名塚」と呼ばれる
※(だいみょうづか)

大昔から存在していたそうで、



江戸時代の学者の人が

「太平記」という古典物語の伝承から

「大名塚が北畠顕家公のお墓である」

と推定したため、墓碑が建てられたそうです。



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真横から墓碑を撮影。


白い砂利石が

はみ出すことなく敷き詰められていて、

大事に扱われていることが

伝わってくる。



ここに北畠顕家公が眠っているかは

定かではないようだけど、

拝礼する人々の慰霊の祈りが

届いてくれると嬉しいですね。



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ぐるっと一回りして戻ってきた。



『後ろにも石碑みたいなんあるで』

『あ、本当だっ』




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後ろにあった石碑。

柵で囲ってある。




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昭和15年5月22日

建立された碑のようだ。


漢字だらけで難しいけど、

「昭和3年7月に
 「北畠卿顕彰會」という団体を設立。
 寄附を募ってお墓周辺を買収して整備。
 大阪市が史跡公園として経営」

みたいなことが書いてある。



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裏側。


窪みがあるけど

何が書いてあるか分からない。



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すぐそばの建物にあった案内板


先ほどの漢字だらけの石碑

刻まれていた文字の写しのようだ。


詳細は写真をご覧ください。



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公園内の建物。

「顕家会館」という事務所らしい。




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「阿部野の露」という題の案内板


文字が大量に並んでいる。

気になる方は写真を……。




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窓の前に

「北畠顕家公 ご尊像」

と書いてある。




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『窓ガラスが汚れてて
 よく見えないなー…』

『柵があるから拭きにくいんやろね』

『柵にへばりつくようにしたら
 見えるんとちゃう?』

『こんな感じでこーやって…』



『ファーーーッ!?』



まーさんが急に死んだ。




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!?


近っ! ちっか!!

思った以上にご尊像の位置が近い!


そして予想より大きかったよ、

北畠顕家公のご尊像。

そりゃまーさんもビックリだわ。



しかし公園なのに

資料館並に色々あるなあ。


色々あるから

記事がすごく長くなった……。



飽きてないですか?

飽きてたらごめんなさい。



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左端には年表があった。

北畠顕家公の略歴が書かれている。




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公園を出た先。


あべの筋沿いの歩道脇にも

が建っていた。


「北畠顕家卿之墓」


と刻まれている。


北畠公園

顕家公のお墓であることを示す

碑のようだ。



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左側面。


碑は昭和4年5月に建立。

建立した方の名前も刻まれている。



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右側面。

「正六位勲五等
 武岡充忠 書」

と刻まれている。



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車道側。


正面と同じく、

「北畠顕家卿之墓」

と刻まれていた。



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足利尊氏を一度は敗走させたほどの武力と

天皇をいさめる政治判断力を持った、

南北朝時代の公卿「北畠顕家」の墓碑がある

「伝北畠顕家墓」。



北畠公園内にありますので

ぜひ訪れてみてください。



※この記事の写真は2018年10月に撮影したものです。


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【伝北畠顕家墓】



最寄り駅は
阪堺電車・北畠駅
阪堺電車・東天下茶屋駅