この日は大阪市の北側に位置する
吹田市を訪れました。
※(すいた し)
1970年の大阪万博の開催地として
知られている市で、
「太陽の塔」があるのもココ。
ここは吹田市内の少し南側にある
阪急・豊津駅の駅前。
※(とよつ えき)
この駅舎? の出入口の
すぐ向かい側を見ると……。
植え込みの中に
公共施設の表示と街の地図があり、
その中に紛れるように
石碑と看板らしきものが建っていた。
『アレなんやろね?』
『…んー? あっ!
石碑みたいヤツがある』
石碑みたいヤツがある』
『俺が先に見つけた!』
『何言うてん!
ウチが先に見つけたっちゅーねん』
一緒にいた嫁のまーさんが
先に石碑の存在に気づいたけど、
譲り合いとかそういう精神のアレで
私が最初に見つけたことになった。
やったね。
石碑と案内板。
……石碑?
石碑かなコレ?
何かが刻まれているけど読めない。
案内板を確認しよう。
こちらが案内板。
昭和60年3月に
吹田市教育委員会が設置したらしい。
タイトルには
「糸田橋石柱(明治36年)」
※(いとたはし せきちゅう)
と書かれている。
看板の文字が薄くなっていて
読みにくいけど
詳細は写真をご覧ください。
以下に簡単な内容をまとめます。
「糸田橋 石柱」
この「いとたはし」と刻まれた石柱は
阪急・豊津駅西出口の路上に
埋没していたのを掘り出して移設したもの。
「糸田橋」は
改修前の「糸田川」に架かる橋だった。
天井川であった「上の川」とともに
※(天井川=平地よりも高い位置にある川)
度々氾濫して住民に被害を及ぼすので、
昭和16年(1941年)に
糸田川・上の川の両川を改修した。
糸田川・上の川の両川を改修した。
当時の「糸田橋」は欄干がなく、
長さ5~6メートルの板石を
4~5本並べて吹田街道に架けられていた。
石柱の正体は
「糸田橋」の名を示すモノでした。
欄干がない簡素な橋で
親柱などが無かったため、
※(親柱=橋の名前などが記された太い柱)
目印として橋のたもと辺りに
橋名を掘った石柱を建てたんでしょうね。
案内板、左下の地図。
糸田橋があった頃の地図と思われる。
薄くなりすぎてよく分からない……。
「糸田橋」の石柱。
説明を読んでから確認すると
たしかに「いとたはし」と
刻まれているように見える。
明治36年(1903年)に
設置されたとのことだけど、
埋没していたせいか保存状態が良い。
ところでなぜ埋まっていたのだろう?
ところでなぜ埋まっていたのだろう?
川の氾濫で埋没したのか、
または改修時に埋めてしまったのか。
理由は分からない。
『なんか…斜めに刺さってるね』
『そう言われたら
少し左に傾いてるような…』
『酔っぱらいが蹴ったんと
ちゃうやろなコレ…』
『でもしっかり埋まってるよ』
『うーん…なんやろなあ』
左に傾いているのが
とても気になる……。
気になりすぎて夜しか眠れない。
石柱の左側面。
何か刻まれているように見えるけど
草どもが邪魔で判読できず……。
草A「ウェーイッ!」
草B「ソイソーイッ! ウェーイッ!」
石柱の右側面……こっちも草の魔の手が。
このままヤツらに
埋め尽くされないことを祈る。
改修される前の糸田橋の痕跡を示す
「糸田橋石柱」。
阪急・豊津駅をご利用の際は
ぜひ眺めていってみてください。
※この記事の写真は2018年11月に撮影したものです。
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【糸田橋石柱】
最寄り駅は
阪急・豊津駅
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