この日は中央区にある
「淀屋橋駅」周辺を散策しました。
※(よどやばし えき)
※(よどやばし えき)
駅を出てすぐの「御堂筋」沿いから
一本東にある路地を
ず~~~っと南方向へ歩いていると……。
『そこの建物の角にあるの
石碑ちゃう?』
『え? どれ?』
『ジョウみたいな字の
赤い旗の下にあるヤツ』
『旗の…下?』
『あー。本当だね』
一緒に歩いていた嫁のまーさんが
すごく分かりにくい場所にある
石碑を発見してくれた。
ありがとう。
碑には
「梅川忠兵衛 ゆかりの淡路町」
と刻まれていた。
『知ってる人?』
『うーん…知らへんなー』
誰だろう……?
大阪育ちのまーさんも知らないらしい。
今いるこの場所が
中央区の「淡路町」。
この町にゆかりのある人らしい。
碑の左側面。
「五代目 吉野屋嘉助 建立」
と刻まれている。
『この人も誰か分からない…』
『あっ! この人アレちゃう?』
『目の前にある店の
関係者ちゃうかな?』
関係者ちゃうかな?』
まーさんが言う
目の前の店を見てみると、
「吉野鯗(すし)」と書かれた
ちょっと古い感じの扉があった。
すしの字が難しい。
ちゃんと表示されてるのかな……。
文字化けしてたらごめんね。
少し離れた所から撮影。
碑が設置されている建物は
扉にもあった「吉野鯗(すし)」
というお寿司屋さんの前。
この日はまだお店が開いておらず
他に案内板なども無いため、
これ以上のことは分からなかった。
とりあえず碑を建立した
吉野屋 嘉助さんという方は
この店の五代目店主だと思われる。
看板が木に隠れていたので
近くで撮影。
大阪のお寿司屋さんには
色々な「すし」の漢字があると
聞いたことがあるけど
この「鯗」の字は初めて見る。
帰ってから調べてみたところ、
こちらは「梅川忠兵衛さん」ではなく
「梅川さん」、「忠兵衛さん」
という男女二人の人名だと分かった。
以下に調べた内容を簡単に記します。
「梅川 忠兵衛 ゆかりの淡路町」
江戸時代、この淡路町に
飛脚問屋の亀屋があった。
亀屋の飛脚「亀屋忠兵衛」は
新町の遊女「梅川」にすっかり入れ込み、
店の金に手をつけて彼女を身請けした。
※(身請け=遊女から身を引かせること)
二人は忠兵衛の故郷の近く、
大和郡山の上里村にいた
(※現在の奈良県)
親類の下に身を隠すが捕まってしまい、
牢獄送りとなった。
牢獄送りとなった。
飛脚の忠兵衛さんと遊女の梅川さんの
悲恋を伝える碑ですね。
この実話を元に
浄瑠璃の作品を作り上げたのが
浄瑠璃作者で有名な「近松門左衛門」。
※(ちかまつ もんざえもん)
近松さんが脚本した「冥途の飛脚」は
※(めいどのひきゃく)
※(めいどのひきゃく)
正徳元年(1711年)に竹本座で公演され、
人気の博したとのこと。
この碑の文字は浄瑠璃太夫(演者)の
「四代目 竹本津大夫」さんが書いた字。
「竹本座って何?」って方は
以前書いた記事があるので
こちらのリンクからどうぞ。
内容:義太夫節の始まり
この碑は
昭和54年11月に建立。
「吉野鯗(すし)」の
五代目・吉野屋 嘉助さんが
「淡路町」の名を伝えるために
建立したそうです。
こちらの「吉野鯗(すし)」は
創業天保12年(1841)、
江戸時代から続くお寿司屋さんで
江戸時代から続くお寿司屋さんで
大阪の郷土料理「箱寿司」発祥の店。
老舗のお寿司屋さんだ。
向かいには「つるまるうどん」。
碑の場所から北側を眺めた景色。
御堂筋のビジネス街なので
オフィスビルが建ち並んでいる。
近松門左衛門の作品にもなった
淡路町ゆかりの物語を伝える
「梅川忠兵衛 ゆかりの淡路町」の碑。
近くを通り掛かったら
ぜひ眺めていってみてください。
※この記事の写真は2018年8月に撮影したものです。
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【「梅川忠兵衛 ゆかりの淡路町」の碑】
最寄り駅は
京阪電車・淀屋橋駅
地下鉄・淀屋橋駅
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