この日は北区にある
「天満橋駅」の周辺を散策。
駅を出て西側の路地とかを
ニョロニョロと歩いていました。
大きな建物前の植え込みの中にある
なんか薄っぺらいこの看板。
最初は何とも思わずに通り過ぎたけど
一緒に歩いていた嫁のまーさんに
引き止められた。
『今の何かの跡地って書いてあったで』
『え? どこに?』
『そこの看板』
『跡地……なんだろう?』
気になったので、引き返して
看板を確認してみることに。
建物の避難経路とか
非常口についての案内かと思ったら
本当に史跡の説明板だった。
「豊臣氏 大坂城内 武家屋敷跡」
と書いてある。
『ほらー! ほらぁー!!』
『・・・・・・』
『ウチがおらんかったら
見逃すところやったやろ?』
『そうだね』
『……もっと感謝して』
『えらいぞ。後でチャオちゅ~るあげよう』
『ウチは犬か何かかっ!』
『グウゥ~ッ……!
二度と見つけたらへんからなっ!!』
ばかめ。
チャオちゅ~るは猫のおやつだ。
看板をアップで撮影。
にわか雨が降った後だったので
水滴が浮いていて、少し読みにくい……。
詳しいことは写真をご覧くだだくとして
内容を簡単にまとめると、
この辺りは、桃山時代(16世紀)に
豊臣秀吉が大坂城を築いた際の
「惣構」の内側に位置しており、
※(そうがまえ)
大名の屋敷があったと推測されていた。
1987年8月~11月の発掘調査によって
屋敷の遺構が発見されたため、
地上に移設し、現在の建物の一部として
保存活用することにした。
「惣構」とは
城の外壁に当たる部分のこと。
その惣構の内側、大坂城の域内に
豊臣秀吉に仕えた有力大名の屋敷が
建てられていたと推測されていたので、
実際に発掘してみたら
屋敷の痕跡が出てきたというお話ですね。
看板右下の
「大阪城域図」と書かれた絵図。
緑線の部分が外郭、
つまり「惣構」のこと。
徳川時代(江戸時代)の
大坂城の外郭は
現代とほぼ同じような大きさだけど
豊臣時代(桃山時代)の
大坂城の外郭は緑の点線部分。
徳川時代と比べて4倍くらいの面積を
有していたことがうかがえる。
……中央区ってほじくり返したら
色々な遺構が出てくるんじゃないの?
看板左下の
「出土遺構配置図」と書かれた絵図。
絵図の下側、緑色に描かれた
石の群れが
移設された遺構ということらしい。
絵図をよく見ると
井戸の遺構とかが結構あったみたいだけど
全部埋めちゃったのかな?
こちらが移設された遺構。
石畳のような石たちと、
武家屋敷の柱の基礎跡と思われる
丸いくぼみのある四角い石が
設置されていた。
先ほどの説明版によると、
一緒に発掘された鬼瓦に
桔梗の家紋が使われていたため
※(ききょう)
武家屋敷の主は、有名な戦国大名の
「加藤 清正」か
※(かとう きよまさ)
その関係者のものとされているそうだ。
「加藤清正」と言えば築城の名手。
九州にあるあの熊本城を築いたのが
他でもない、清正さんです。
柱の基礎っぽい跡。
反対側から撮影。
「加藤清正」さんのものだと思われる
こちらの武家屋敷は、
元和元年(1615年)に起きた
「大坂夏の陣」で大坂城と共に
焼失してしまったとのこと。
有名な戦国武将の
屋敷跡かもしれないんだから、
屋敷跡かもしれないんだから、
全体を復元したら観光資源になりそう
とか思ってしまうけど、
とか思ってしまうけど、
この辺りは大阪屈指のビジネス街。
しかも発掘時は
高度成長期の時代ということもあり、
諸々の事情で難しかったんでしょうね……。
ちなみに武家屋敷跡の上に
建設された建物は
「エル・おおさか(府立労働センター)」。
貸し会議室や各種講義イベントが
行われている施設とのこと。
府立だから府の力が働いてると思う。
ちなみに発掘調査によって
発見された出土品などが
ここのロビーに展示されているそうです。
訪れたのが開館前の早い時間だったため
見ることが出来ませんでした……。
機会があれば改めて訪れてみよう。
「エル・おおさか(南館)」の全体像。
遠目から遺構を見ると
和風の植え込みにしか見えないので
もう少しアピールしてほしい。
もう少しアピールしてほしい。
あっ、そうだ。
武家屋敷の遺構があるのは
武家屋敷の遺構があるのは
土佐堀沿いにある「本館」ではなく、
「南館」側なのでご注意を。
ビジネス街の一角に
ひっそりと移設されている
「豊臣氏 大坂城内 武家屋敷跡」の遺構。
大阪城に関係する
貴重な遺構だと思いますので
貴重な遺構だと思いますので
ぜひ訪れてみてください。
※この記事の写真は2018年7月に撮影したものです。
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【豊臣氏 大坂城内 武家屋敷跡】
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京阪線・天満橋駅
地下鉄・天満橋駅
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